大国戦攻略WIKI - 三国志年表

曹操

劉備

孫権
年号西暦出来事結果
184〜205黄巾の乱太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした反乱。農民信者が多かった。指導者の張角自身は同じ年に病死し、張角の兄弟の張宝、張梁も討ち取られて本来なら終結に向かうべきであったが、後漢の政治腐敗に対する反発する民衆が指導者抜きで反乱を続けた。その結果後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。
189洛陽で軍事力を持つ唯一の存在となった董卓は兵力を背景に袁紹らを封じ込め、天候不順を理由に司空の劉弘を免職させ、後任の司空となった。そして少帝の生母である何太后を脅して少帝を廃し弘農王とし、陳留王を皇帝とした(献帝)。その後位人臣を極めた董卓の専横が始まり、暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲って金品を奪ったり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、董卓の兵が毎夜のごとく女官を凌辱したり悪道非道を重ねた。
190袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立。董卓が洛陽を焼き払い(その中で弘農王は毒殺された。)長安に遷都し、孫堅が洛陽を制圧する。
191襄陽の戦い袁紹対袁術。袁術派の孫堅が敗死する。その後袁術が曹操に大敗すると、袁術派だった徐州の牧・陶謙が自立を考え、遺言で後継に劉備として病死した。
192董卓が呂布によって暗殺される。
199界橋の戦い袁紹は公孫瓚を破り、河北を平定。
200官渡の戦い劉備が反曹操で蜂起し、袁紹に助けを求め、袁紹と曹操が天下分け目の戦いをした。袁紹は大軍であったにも関わらずまさかの大敗をして、それ以降曹操が天下人になる。劉備は荊州の牧の劉表を頼って身を寄せ、新野を任された。また劉備はこの頃徐庶の勧めで諸葛亮に三顧の礼を尽くして陣営に迎え入れる。
207白狼山の戦い曹操が袁紹の一族残党を破り、河北を統一し、結果曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表、江東の孫権、益州の劉璋、漢中の五斗米道、関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。
208赤壁の戦い曹操は荊州の牧の劉表を討つべく南下していたが、劉表が亡くなり、その子劉が魏に降ったため、曹操の天下統一は揺るぎないものになったが、劉備と孫権の連合軍が曹操の慣れない水軍に火攻めで勝利する。当時の孫権は会稽太守に過ぎず、数十万とも言われる兵と朝廷の権威を擁する曹操の大軍勢を前に、孫権の陣営の多数派は降伏を考えていた。しかし魯粛だけは抗戦を説き、鄱陽に出ていた周瑜を呼び戻させた。周瑜は曹操軍は水軍の扱いに慣れておらず、それに曹軍の水軍の主力となる元劉表の所持していた荊州の兵や、袁紹を下して編入した河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、勝機はこちらにあると分析した。魯粛は孫権に劉備と同盟をさせて、孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を劉備の救援に派遣して、長江流域の烏林・赤壁で火攻めにして敗走させる。
220曹操病死(享年65歳)。その子曹丕が後漢の献帝から禅譲されて魏を設立させ、初代皇帝になる。後漢滅ぶ。
222夷陵の戦い蜀の皇帝劉備が関羽の復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻したが、呉の陸遜は火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を敗走させた。
223劉備病死(享年62歳)
228石亭の戦い孫権が鄱陽太守の周魴に対し、偽りの降伏を魏に申し出て、陸遜に10万の兵を率いる曹休を石亭に誘い出させてだまし討ちにして、多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類1万台を奪取。
229孫権が呉の皇帝になる。
234諸葛亮病死
241二宮事件呉で孫権の皇太子だった長男の孫登が亡くなり、皇帝相続人を巡って争いが起き、10年続く。孫登は次の皇太子に弟の孫和を推し、孫和が皇太子として認められるが、孫権がその異母弟の孫覇を魯王に立て、孫和と同等の扱いをしたため、両者で争いが起きる。その最中に陸遜が亡くなる。結果的に孫和は廃太子されて孫覇は処刑される。そして孫和も元孫覇派の手にかかって自殺に追い込まれる。この事件によって呉は衰退する。
252呉の孫権病死(享年70歳)、10歳の孫亮が皇帝になる。
263蜀2代皇帝劉禅が魏に帰順して、蜀滅ぶ。
265魏の皇帝が司馬炎に禅譲して西晋が成立し、魏は滅ぶ。
272西陵の戦い呉の歩闡が西晋に寝返ったが、陸抗(陸遜の子)が鎮圧する。
280西晋が呉に侵攻して、呉の皇帝孫晧(廃太子になった孫和の子)が降伏して滅ぶ。274年までに陸抗などが亡くなっており、内乱の中で攻め込まれた。